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(1)沿革
田原は掃除原(ソージバル)、伊知真志原(イチマシバル)、不知嶺原(フチンミバル)の3つから成る小さな部落である。田原は湖城(大正3年・那覇に出る)、松川(明治36年字栄原に合す)、堀川(明治36年小禄に合す)とともに新たに出来たところであった。
そして明治36年に堀川村とともに小禄に合していたが戦後の土地附番にともない、正式には昭和26年4月1日以降、田原として独立し現在に至っている。(年表・明治36年と昭和26年参照)。
遠い祖先はいつ頃、どのようにして来られたかはっきりしていない。わかったことは、護佐丸の外子であるということである。それは、慶留間智徳氏の「琉球祖先高鑑」で記述されている。
小禄大君、居所は小禄田原の根屋松川と言う家也。玉骨は金満嶽の北方の岩下成亥向の穴内に在り、其後商は北山より来て元祖を相続す。
又其後は南山の孫豊見城按司の長子より相続す。然れども世子無き為、護佐丸の外子中城綻親雲上が相続せり……と記録されている。
門中組織を見ると、(1)殿内門中、(2)与儀門中、(3)田原金城門中、(4)兼盛門中、(5)堀川門中、(6)百次(むんなん)門中、(7)沢低門中、この7つの門中の(1)(2)(3)は兄弟であって、(1)が殿内の次男、(2)が殿内の長男、(3)が殿内の三男であったといわれている。
長男は百姓をしていて、次男は首里勤めをしていた。家の者が次男を丁重に扱い、長男を下げすんでいたので、長男と次男のいさかいが絶えなかった。それでとうとう長男が飛び出して、与儀門中の元になったといわれている。
(2)戦前の状況
水の豊かな田原村
人々の心もうるわしく
住に報いて道広し
と「小禄間切口説」に詩われているように部落こそ小さいが、のどかで水の豊かな所であった。農業が中心で、キビなどが主であった。蔬菜類も色々作ったが、他部落にくらべて特にというものはない。
農業に不可欠な肥料は人糞尿で、通堂(トンドゥ、那覇港近く)からウティンダ(山下町の泉)まで船で運ばれ、農民は二つの肥料桶を天びん棒で担ぎ、デコボコの坂道を登り田原の畑まで運ぶという重労働だった。農地が狭く、他部落へ日雇い農夫になった者もおり、彼等は重労働で栄養状態も悪くイルソー(青白い顔)といわれた。
又那覇港湾の荷役作業に就業した若者も少なくない(この場合、葬式など部落が必要とした時、若者を呼び寄せるのに苦労した)。家内工業として県の補助があり、昭和15年頃機織工場(田原73)が創業されていたが、工員数など実態は不明である。
海外移民(ハワイ、フィリッピン)もあり、送金によって暮らす世帯もおり、概して貧しい部落だった。
昭和12年日支事変が勃発。続いて太平洋戦争に巻き込まれ、大勢の青年達が出兵した。部落民総出で出征軍人のノポリと日の丸をたなびかせた。
戦争の不利に伴い、昭和19年夏、海軍巌部隊3千名が進出し、カテーラ森(寿山)に陣地構築、そこを指令部として小禄第二国民学校は兵舎、各家庭は軍需物資などの倉庫代わりとして使用された。米軍との地上戦は寿山を中心にすべての丘は陣地化し、猛砲爆撃にさらされ大多数の将兵、民間人が犠牲になった。
なお小さい部落より二人の小禄村長が輩出し、今次大我の中で八代目村長として金城善発氏(1896〜1945)が昭和16年6月から終戦まで奉職。住民防護の責任上最後まで郷土で奮戟したが御夫婦共に殉職され、戦後1949年に報徳碑が建立された(赤ナー森)。………報徳碑文は、次のとおりである。
※ 故金城善条氏 資性温厚聡明 永年郷土ノ教育産業行政二粉骨砕身 大東亜戟争二於テハ人命防護二常り遂二自決セラレ 令夫人善子氏亦貞淑至誠教育婦人会指導二心血ヲソソガレ 夫君善柴氏卜運命ヲ共ニセラル ※
また小禄村長四代目として上原興永氏(1879〜1965)は、大正13年4月から昭和7年まで約8年間奉職された。上原興永氏は百次門中、金城善果氏は田原金城門中、共に誇る字の人材であった。
(3)戦後の状況
海外から復員や引き揚げ者・避難民が帰り、昭和21年に部落が復旧。村の行政指導で、中央通りを境に西は字金城と東は宇田原に区画。家屋は、規格住宅に指定された。
戦争で田原の約半分は軍用地に接収され、農地は僅かに残る。然も伊知真志原と不知嶺原の上を高圧線が走り、現在では農業も細々となされている。それより戦後いち早く膨大な軍事基地に目をつけ、米軍相手の個人洗濯業の潤いのほか、革労務で人々は生気をとりもどした。
また、北発電所(与儀一雄氏)が創設されて劇場(映画、芝居)ができ、山下交差点から現カプチン教会、さらに(旧)小禄前原郵便局の交差点まで道路の拡張工事(総工費60万円(B円)。区長与儀一雄、村議上原忠勇の功績)、ガリオア資金にて区内十カ所の井戸が新設又は補修され、水利用の緩和を図った。後に水道が普及(下水道はまだ不備)、都市化した。
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