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(1)沿革
金城は、真和地(志)間切から字小禄、字儀間と共に分離し「/ト禄間切」となった村である。当時の真和地(志)間切の頃には、首里金城(後に茶湯崎・更にその後は松川へと改称)と儀間金城(後の字金城)の二つの「金城」という地名があり、儀間金城は隣接した二個以上の地名の連称で「二村併称」といわれる。二村併称の例には、安次嶺赤嶺・儀間湖城・豊見城の保栄茂翁長・我那覇名嘉地などがある。
この部落の由来は14世紀初頭の頃、島尻郡大里村字大城・大城グスク話に遡る。天孫氏系続の玉城按司の次男・大宗真武が、大城グスクの按司(大城按司)になったと伝えられるが、島添大里(通称「東大里」・大里村字西原在)グスクと対立的で、大城グスクと東大里グスクとの間に戦争が行われたという伝説がある。
これによると、両軍は長堂原(大里村字真境名在)で大合戦を演じたが決着つかず、戦場は稲福遺跡群のある台地に移った。大城グスク軍優勢のうちに戦局は進んでいったが、大城グスク軍の旗手が折柄敵の退却を見て、総勢挙って雀躍して歓呼の声も高らかに狂喜し、誤って旗を倒してしまった為に、城中からこれを眺めていた妃や若按司らは、てっきり敗北したものと思い、城に火を放ち自害した。そして今度は、城のこの有様をみて、大城グスク軍は勢威落ち、結局は敗北四散し、大城按司・大宗真武は稲福西側にて討死したため永く其の地に葬られ、明治25年大里村字稲福の東南部の松林の中に移管改築の際、壮大な墓地が建設され(俗称「ボントウ」お墓)按司の遺骸を葬った墓所がある。これは大里村史(162頁)の記述であるが、実は討死した大城按司、大宗真武の長男、二世真宗(大城之子)が嬰児の身で逃れ、母・按司お妃の出身地の玉城村垣花に落ち延び、さらに儀間金城の下田原(小禄気象台のあった所)へ逃れて落ち延びた。その逃避行の中に按司お妃或は若按司の姉妹(即ち討死した按司の娘)らの何れかが一緒だったのか、字金城の「御嶽」の南東側隣に屋敷を構えていた字国元に当る屋号・上江の屋敷裏の御嶽側に在った墓から、黄金カンザシが発見されたという。ちなみに上江は、大城按司の血を延く傍系末商に当たるとも云われている。
明治36年10月には字安次嶺に吸収合併され、戦後昭和26年4月1日には「字金城」として独立の行政区画名を呼称する。(年表・明治36年と昭和26年参照)
字金城の門中組織は、
(1)上江門中(参上江別門中)、(3)高良門中、(4)大屋門中、(5)徳山小門中(上原姓)、(6)新東小門中、(7)東江門中(赤嶺姓)、(8)松元門中(首里姓)、なお過去、戦前戦中まで存在した門中で、(勤瀬長門中(高良姓)、(19)宮城小門中(高良姓)等は現存しない。
以上の門中組織の中で、(3)高良門中 (4)大屋門中 (6)新東小門中は高良姓で、字小禄の大里門中からの分岐である。そして(5)徳山小門中は字具志から移り住んだと言われる。
(2)戦前の状況
部落は西原・前原・金城原・伊武田原の四つの地番区域から成り、狭小ながらも字の村井戸の土堤に一本の桧の大木が植栽され、森閑荘厳な神秘的雰囲気の深い地域で、殆どの家は農業を主としていた。
土地は肥沃だが狭いので最大限の利用を目指し、もっぱら読菜・甘藷・砂糖キビ作りに精出し、粗糖製造し出荷した。
「/ト禄間切口説」に、
言葉甘さや金城
老も若衆も打ち揃て
譲り結びぬ肝美らしや
(3)戦後の状況
閑静で豊かに青々と拡がる肥沃な耕地の恵み、平安と幸福を約束していたかの土地も戦争で一変し、すべて米軍用地化してしまった。戦後しばらくは、字宇栄原や字高良、字田原へと転々と他部落に避難民として収容され、居住を強制され不自由な暮らしに甘んじて来たが、新部落が同じ境遇に喘ぎ同病相憐れむ心境の各字の協力と当該地主方々の御理解によって建設され、大部分が其処に移り住んだ。この時期に方々へ散ってしまった者も少なくないが、今も「かりゆし会」や「敬老会」そして「新年会」や「旅行会」などと、字民の結束は絶えることがない。
とあるのをみても、いかに部落の人々の結束の強さが自他ともに認識されていたのかが偲ばれ、失われ行くも惜しまれる醇風美俗として、深い感慨を誘う語り草の一つとなっている。「人物養成」という育英制度があって、金城人なら誰もが先輩古老の人材資源の養成に制目してきたかに想いを致すべきであろう。貧困に喘ぎ覿難辛苦に堪えて遂に到達した「知恵の泉」に、如何に先人が若者に期待を託したかが思いやられ、その賢明さに感謝と尊敬の念が自ずと粛然と襟を正させる。まして全県下といえども、字レベルでは全く珍しい稀有の制度と、現在の字民の認識を新たにさせる程に驚歎させるに及んでは銘戒切実に迫り、景仰の境地を誘う。
その所為か学問好きの人が多かったと言われる。資金は約1,000円也(昭和10年頃)の制度と小規模なのが惜しまれる。ここから教育者・医者・技手・勧銀管理職者が輩出した。まず校長として島尻郡教育界の知名士となった高良忠成氏は、定年後にも言語学的発音研究に精出し気を吐いた。その動機は自身の小禄弁靴に困惑が余程骨身に泌みて深刻だったからという。また、地頭代制度廃止直後の初代間切長の赤嶺亀助氏も、この部落の上江門中・西赤嶺小(屋号)の出身である。
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