小禄 -OROKU- ホームページへ

■ 12ヵ字 ■

字小禄(おろく)

字田原(たばる)

字金城(かなぐすく)

字赤嶺(あかみね)

字安次嶺(あしみね)

字当間(とうま)

字鏡水(かがみず)

大嶺(おおみね)

字高良(たから)

字宮城(みやぎ)

字具志(ぐし)

字宇栄原(うえばる)

字小禄(おろく)

▼ 参考文献「小禄村誌」▼

(1)沿革

 字小禄は、儀間・金城とともに真和志間切から分割され、小禄間切として誕生した村である。その時の小禄間切の中心が「小禄」で、首里から1里8合離れた小禄に番所が置かれ、当時の小禄番所は、現在の小禄43番地にあたる。

 字小禄には何年頃から祖先が居住されたか定かでないが、現在も七(ナナ)ハロージと云って次の七門中があり、他町村からの参拝者が多いことから、先住者ではなかったかと云われている。

 又小禄には浄土(念仏者(ニンブチヤー)と云って鐘鼓を打ちながら、南無阿弥陀仏を唱え、死者の成仏を念じていた。

 (注)七(ナナ)ハロージには崎山・内間・思い・殿内・照屋・大里・呑殿内の七旧家で、現在も次の45カ所の門中があり、その血縁的結束は根強い。

 現在の門中は、
    (1)照屋門中、(2)大里、(3)後波平前、(4)武富、(5)賀数、(6)前与儀、(7)大添小、(8)根屋小、(9)新地、(10)米須、(11)赤嶺、(12)川端、(13)上問、(14)松川、(15)呑殿内小、(16)道ヌ上、(17)仲里、(18)佐久本、(19)谷原、(20)前玉井、(21)新屋敷、(22)真栄田、(23)前並里、(24)佐久、(25)佐久並里、(26)儀間、(27)前下庫理、(28)内間、(29)前上原、(30)東リ門、(31)上仲門、(32)田原、(33)上前ン田、(34)前ン田小、(35)後ン川、(36)上久、(37)新米須、(38)謝金武、(39)上堀川、(40)東り江、(41)慶留間、(42)西川下、(43)思い、(44)辻ン根、(45)西川小、(46)松下、(47)沢岻、(48)鑑心

(2)戦前の状況

 現在の県道7号線から東側の小禄1丁目付近は湿地帯で、い草が植えられ、また現在の小禄546-2番地の所には泉原から流れてくる小川があり、橋口と呼ばれる石橋がかかっていた。大正の頃までは、ここまでくり舟が入って来て農耕にも使用された。鏡原町付近は漫湖の西側に当たり、湖上に浮かぶガーナ森の姿は那覇八景の一つに数えられる程であった。現在の泉原、袋週原、万越原一帯は肥沃な農耕地として知られていた。

 産業としては、那覇の消費地を抱え、農業が盛んであった。キャベツ・トマト・ニンジン等は本土に出荷される程であり、又甘蔗も大茎種を導入し、製糖工場も同一敷地に3工場があり、昭和の始めには発動機による圧搾機も設置される程であった。粗糖は白下糖があり、他字の黒糖より上質のものであった。

 婦女子は機織(ハタオリ)と製帽に専念していた。特に小禄には藍染め工場があり、殆どの家庭には地機(ハタ)、高機があって、小禄クンジーを織っていた。又、帽子編にも専念し、その工賃は家計を潤すのに充分であった。その他に各家庭では養豚も盛んになり、小禄ウァーサーで有名となった。更に沖縄随一の南陽酒造会杜があり、泡盛・アルコールが生産された。その残津(サイ)が養豚熱に拍車をかけた。

 年中行事は、(1)初拝み(旧1月2日)、(2)向上会、(3)クシユックィ(腰休み)、(4)アブシバレー(虫除け)、(5)ウマチー(旧5月15日と6月15日)、(6)綱引き等があった。本字には1号から9号までの行政班があり、各々班長(チンジュガシラ)がいた。上記の行事の時は、班単位で字行事に参加するならわしだった。各班にはそれぞれ異なったデザインの旗頭があり、特に(2)(3)(6)の行事には、9本の旗頭が勢揃いし壮観そのものであった。そして2号には、ミルク菩薩を型どったミルク様(木製、漆仕上げ)が供を従えて人場し、五穀豊穣を祈る踊りから始められた。

 明治の末頃から布哇(ハワイ)の農業移民が許可されるや、いち早く本字からも数回に亘り40人位が移住し、次いで、比律賓(ヒリッピン)・南米・南洋サイパン等へと数多くの人が新天地を求めて郷里を後にした。

(3)戦後の状況

 昭和19年の10・10空襲から始まり、同20年の地上戦が終息するまで小禄も激戦地となり、北部に疎開していた字民も宇栄原、津真田方面に戻って来て、バラック屋に作り移り住んだ。昭和21年4月頃から小禄地区への立ち入りが解禁され、規格住宅の資材が支給され、共同作業で建築が進められ、字民が移動して村造りが始められ、現在の県道62号線は米軍により作られた道である。

 その間字民の間では、建築資材をつくる製材所や鍋、薬缶等の鋳物工場、自動車の部品を拾い集めての自動車組立工場や酒造(いもを原料に)工場等と復興に向けての邊しい息吹きが感じられた。

 昭和24年4月には布哇(ハワイ)在住字小禄人会から沢山の学用品、運動用具、ミシン、大辞典等が贈られ、昭和27年には同じく字人会から1万ドルの救援金が届き、学校は布哇会館(図書館)を建設。字小禄と字田原は、他字よりいち早く公民館を作ったものである。その他にブラジルの字人会からも多額の救援金が送られて来た。

 戦前の落平(ウティンダ)ヒージャーやガーナー森付近の海はすっかり埋め立てられて運動公園や住宅街となり、泉原や万越原方面も区画整理されるようになり、農耕地も散見される位で、住宅地・団地と大きく変わって来た。

 なお、字内からの傑出した人物を幾人かにしぼるとすれば次の方々であろう。

(1)高良隣徳先生
 明治29年3月東京高師卒、明治44年4月県立第二中学校初代校長、大正6年11月県議会議長に就任し、大正8年3月逝去。

(2)波平謙一先生
 戦前小禄村には2人の医者がおられ、そのうちの1人が波平(波平ヌ前)先生である。色白で温厚な先生で、往診のときは愛馬を使っておられた。

(3)赤嶺康成先生
 東京高師、東京文理大卒。戦前台湾で女学校教諭、戦後北山高校長、琉球大学教授文理学部部長を歴任。

(4)海外においては、ブラジルの上原幸啓氏(大学教授)とザンビヤの高良初子氏(カラブラ夫人)が県から民問大使に任命されており、将来の活躍が期待されている。

小禄村役所
昭和24頃の小禄村のスタッフと各字区長

小禄自治会

小禄ノ嶽まーい

真玉嶽まーい

真玉嶽物語

2001字小禄大綱引き

小禄クンジー(ウルクくんじー)

参考意見(2008年7月)
字誌は「多少正確でない可能性がある」と下記のご指摘がありました。
ナナハロージは、寄留者(移住者)の門中であって、先住者ではなく、第二尚氏時代の王府命で小禄に来た人々で「草分け(根屋)」ではありません。また、45の門中(1〜48)の中には、呑殿内より古い門中等があります。

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