小禄 -OROKU- ホームページへ

■ 12ヵ字 ■

字小禄(おろく)

字田原(たばる)

字金城(かなぐすく)

字赤嶺(あかみね)

字安次嶺(あしみね)

字当間(とうま)

字鏡水(かがみず)

字大嶺(おおみね)

字高良(たから)

字宮城(みやぎ)

字具志(ぐし)

字宇栄原(うえばる)

字大嶺(おおみね)

▼ 参考文献「小禄村誌」▼

(1)沿革

 東恩納寛惇著「南島風土記」に、中国から来た冊封便の副使に当る徐採光の南遊記・中山伝信録・李鼎元の「便琉球記」等重要な記録があり、このような中国からの高官の日記の中に大嶺が記録されている所をみると部落や家のたたずまいなど、よほど印象に残った所であり、又糸満街道への重要な通路であったためであろうと考えられる。

 大嶺部落に、始めて来られて部落を作られた人は定かでないが、玉城村仲村渠のミントンからであるといわれる。即ち、長男は家を継ぎ、次男は大前を名乗り、三男は名嘉を名乗った。その三男の子にあたる若按司は結婚して長男を儲けたが、まもなく戦が起こり、クラシン御門中で亡くなられた。

 その事を知った妻子は、逃れて瀬長島までやって来て身をかくされた。戟が終わり、平和になったので大嶺に住みついたのが始めてであると言われている。そして二代続いたが跡継ぎがいなくなったので、大里村の大城の三男が養子に入った。

 その人には2人の男の子があったが、2人とも戦いに出て死んでしまった。長男の子はまだ幼かったが、その子も6才で亡くなり、次男の子が成人して当間の屋号上堀川の婿となって跡を継ぎ、具志川世の広がりになったと古老は語っている。そして長男が具志川世を名乗り、次男が後上聞、三男が平良を名乗って発展して行った。

 大嶺の門中制度は中世の頃、沖縄に渡来して来た中国人が持ち込んだと言われ、次の門中がある。
    (1)仲門門中 (2)伊佐門中 (3)仲添門中 (4)朝食門中 (5)後上間門中 (6)平良門中 (7)瀬底門中 (8)古波鮫門中 (9)浜乃端門中 (10)沢低門中 (11)西ヌ沢低門中 (12)添小根門中 (13)大屋門中 (14)城門中 (15)上原門中 (16)赤嶺門中 (17)中屋門中 (18)上地門中 (19)南ヌ内門中 (20)徳平門中 (21)前伊佐門中 (22)当間門中 (23)前ヌ大屋門中 (24)仲間門中 (25)名渡山門中 (26)外間門中 (27)長浜小門中 (28)杭地門中 (29)満名門中 (30)垣花仲村渠門中 (31)瀬門中
があり、又後上間門中より糸満に分かれた門中に徳山門門中、アカヒジ門中がある。

(2)戦前の状況

 大嶺村の西側にある海は遠浅で、満潮になると子供達の素晴らしい海水浴場となり、干潮時には潮干狩りの場となった。また、はるか洋上に慶良問の島々を望むことが出来る保養と生活の場を兼ねた風光明媚な所であり、村の中央には常緑の琉球松が茂っている「上ヌ森」と呼ばれた丘陵地帯と、西北の少し離れた所に「西ヌ森小」と呼ばれる丘があった。この中央の「上ヌ森」を背に添って、住宅地の東南と北側には肥沃な農地があった。農業は主としてサトウキビを作っていたが、地理的な条件を生かしてダイコン、ネギ、人参、キャベツ等も栽培して豊かな村であった。

 大嶺は道路がよく整備されていたので殆どの家庭に荷車があり、荷馬車も相当あって農業生産に活用された。更に漁業も大嶺の大きな産業であった。到船も数十隻あって漁業人口も200名内外おり、村は全体で漁業共同組合を結成し、大きく発展の構えを見せた。その外婦女子は家庭で機織り帽子編みをして、家計を助ける等の仕事をした。

 このように非常に長閑な大嶺に突然襲いかかったのが、飛行場建設のための土地接収であった。第一回飛行場用地の接収は、昭和6年(1931年)8月17日(旧7月16日)旧盆の送り日で、午前10時頃新瀬喜原(俗称名城森上原森)一帯に測量用地の赤旗が立てられているとの話で、村中大騒ぎとなった。これが小禄飛行場建設の測量第一歩であり、その面積は10万坪といわれ、その9割が大嶺地であった。この土地の地代は坪当り80銭、農作物の補償費として13銭が支払われた。

 第2回目の飛行場用地の接収は昭和10年(1935年)で、当時の逓信省航空局の内台定期航空便の中継地として活用された。そして2回目の飛行場用地として接収された土地は約5万坪と言われ、坪当り1円20銭の地価であった。また大嶺の全域にまたがる宅地並びに住宅の接収は、昭和18年(1943年)以降であった。

(3)戦後の状況

 戦後村民は県内各地は勿論、本土や外国から引き揚げ、高良、津真田、宇栄原の一帯に天幕小屋の生活であった。大嶺の人々は、戦前から戟争のため住に対しで怯え続けて来ただけに、前記の仮住宅での生活にも疲れきっていた。何とか大嶺の戦前の屋敷に帰れぬものかと思っても、所詮その願いは叶えられないと言うことも充分理解していた。そこで、何とか小禄地域内に安住出来る大嶺の村の建設用地は確保出来ないものかと言う村民の声が次第にふくれ上がり、昭和27年には大嶺建設委員会が組織されたのである。そして会員は早速毎月B円で1,000円を積み立て、土地購入資金に充当することにした。会員の増減はいくらかあったが、160名内外であった。

 こうして昭和32年、字高良の一角に木造カヤブキの村事務所が建築され、いよいよ復興作業に入ったのである。

大嶺自治会(2004.11.28)

大嶺ノ嶽(2002.02.24)

新部落まーい

那覇市「字大嶺獅子舞」保存会
 沖縄県内には、約180頭の獅子舞がありますが、唯一「目が動く獅子」で、2001年(平成13)には「那覇市指定無形民族文化財」に指定されました。

旧大嶺集落の精密模型
2017大嶺村跡の発掘調査

▼新聞スクラップ・リンク

○琉球新報 1999年06月16日(水)
「失われた故郷復元 旧日本軍小禄飛行場に接収の大嶺集落 金城さんが精密模型で 後世へ貴重な資料」

○沖縄タイムス 1999年06月16日(水)
「消えた故郷模型で復元 那覇空港内の旧大嶺集落 写真や聞き取り基に 金城清議さん製作」

○琉球新報 2000年07月29日(土)「論壇」
「国家総動員法の爪跡 旧那覇飛行場地主の権利回復を」上江田勝行(那覇市宇栄原 自営業)

●琉球新報 2001年08月28日(火)
60年ぶり大綱復活/那覇市大嶺自治会

○沖縄タイムス 2002年09月18日(水)「わたしの主張あなたの意見」
「追い込み漁で昔、珍獣捕獲」金城清議(75)

○ 沖縄タイムス 2002年10月25日(金)「茶のみ話」
「大嶺の海人とジュゴン」金城清議(75)

●沖縄タイムス人物 2002年10月30-31日「長嶺秋夫
長嶺さんは大嶺出身で「小禄村誌」発刊委員会の会長でした。

●琉球新報 2003年02月24日(月)
獅子舞などの民俗芸能披露/世界遺産登録記念芸能祭

大嶺の旗頭

大嶺海岸

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