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(1)沿革
字鏡水は、小禄台地の北部・東支那海に面する海岸低地に位置している。北端は先(崎)原崎と呼ばれた地で、小禄間切の安次嶺村・儀間村の一部であった。明治36年土地整理の結果、安次嶺村の内鏡水原・伊保原・前原儀開村の内
蚊阪・名産原・下田原・箕隈原・土砂場原・水溜屋原・崎原当を割いて新たに「鏡水村」を置き、同41年町村制施行の結果、小禄村字鏡水と称されたのである(南島風土記)
この部落にいつごろ人が住みついたかは定かでないが、一説には西原間切安室村の住人・大屋という人がはじめて大嶺村の長山原というところに移住し、そして同郷の知人「平良」と「新垣」一族を誘い、鏡水原に居住せしめたことが始まりだとされている。
部落には七つの門中がある。古くて大きいのは平良門中で、続いて新垣門中・新崎門中・上地門中・新里門中・真栄里門中・宮平門中となっている。宮平門中は寄留で、戸数も多くはない。
(2)戦前の状況
地内にはナーファチー(那覇地)と称された那覇の地主の土地が多く、堂の前の岸本地、比屋定の岸本地、湧田の大湾地、ウヤマ地、テーラ地などもそうであった。明治末期から大正初期に、小作購入のための助け模合が年一回一口20円で行われ、大正初期には比屋走の岸本地、湧田の大湾地、昭和初期には堂の前の岸本地を買収した。
しかし、住民の大部分は小作人で、新興部落の人口増加率は年々高くなる反面、生産基盤である土地は比例せず、村人は松の到船に乗って読谷村や国頭地方までわたり、染物や藍玉や薪、サツマイモ等を買って那覇で売り捌きつつ読菜栽培に励んだという。
大根豊作(ゆから)す鏡水や
日々の励みもたゆみなく
行く末広く たのもしさ
と「小禄間切口説」にも詩われているように、鏡水は明治の頃から大根(ダイコン)、キュウリ、サツマイモ(カガンジ泊黒)、サトウキビ、ニンジン、タマネギ、などの換金作物の栽培を主とした。特にカガンジデークニ(鏡水大根)の特産地としては有名で、パナマー帽、織物も副業として営んだ。
先原崎には、明治29年に灯台が置かれた。昭和6年から小禄飛行場用地として自尾原の一部、同13年には自尾原の残りと西自尾原の一部、同18年には西自尾原の残りと前原・鏡水・伊保原の各一部が接収された。
(3)戦後の状況
激戦地になった小禄村は郷里に帰ることができず、中北部の収容地区で生活していた。そして21年2月、小禄村の津真田地域と高良地域の一部が解放され、村民は続々と各避難先から集まり、現在の小禄南公民館(戦後小禄村役場があった)を中心とした大集落となった。鏡水字民は津真田、宇栄原、松川、高良にそれぞれ米軍からの材料(ツーバイフォ材、テント、トタン)で作ったバラックの家で生活した。
その後、米軍の廃品を使っていろいろと生活の知恵を働かせ、飛行機の捨て場と自動車の捨て場が現在の新町の社交街の東側にあったので、そのジュラルミンを取って溶かし、鋳型に流し込んで鍋などを作って売るもの、マグネットランプを作って食料品と交換するもの、大小の車輪をはずして荷馬車をつくるもの、真空管を取ってラジオを組み立てるもの、燃料タンクを包んだ厚いゴムを切り取ってゴムゾーリを作るもの、コカコーラの瓶をロープでまきつけ加熱して半分に切ってコップを作る等、ニカ所の米軍の廃品捨て場も小禄村民に大きな貢献をしたものであった。
一方、耕地を米軍に接収された村民の経済は、戦前の都市近郊農村経済から、軍用地料、米軍向け貸家収入など基地経済へと変わっていった。そして生ぜ舌が落着きを取り戻すのに従い、小禄の12カ字民が米軍の指定で仮住いの雑居生活をしていた津真田、高良、松川地域では、地元住民と借地人との間で住宅立替えをめぐり、色々なトラブルが起きた。また次から次へと県内各地や県外の疎開先からの引き揚げによる人口増加に対処するため鏡水・大嶺・安次嶺・当間・金城の字民は、新しい住宅地を確保しなければならない状態となった。そこで鏡水は他村にさきがけて、鏡原町の埋立許可を昭和26年にもらった。
それは新崎武治区長時代のことで、字有志と新垣昌政氏、宮平保政氏等が中心になり、我が字民の安住の地を求めるべく、字小禄後原地先の公有水面埋立申請を小禄村議会へ提出し決議され、当時の沖縄群島知事より漫湖埋立許可(現・鏡原町)をもらった。
そして昭和28年には軍用地に収用された鏡水・大嶺・安次嶺・当間・金城の5カ字は、共同で新部落を建設すべく「新部落建設期成会」を結成。期成会の会長には当時の小禄村長の長嶺秋夫氏、副会長に同じく助役の長嶺良松氏、収入役の長嶺盛良氏には世話人として現金収支の取り扱いに協力してもらった。
昭和28年(1953年)12月には、宅地造成事業もほとんど終り、宅地に区画された造成地は翌年の1月にクジ引きによって各字に割当てられ、翌29年には待望の新部落への移転がはじまった。
新部落への移転が落着いた昭和32年には、漫湖埋立ての機運が再燃し、埋立組合(組合長、平良亀助氏)が組織され、鏡原町の漫湖埋立事業へと総力を結集した。そして埋立許可以来9年余の歳月で、現在の鏡原町の誕生を見たのである。そして現在、字鏡水地域には南西航空をはじめ、各航空会社の事務所、倉庫やターミナルや那覇港湾施設、陸上自衛隊那覇駐屯地ならびに那覇訓練場が立地している。
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