小禄 -OROKU- ホームページへ

■ 12ヵ字 ■

字小禄(おろく)

字田原(たばる)

字金城(かなぐすく)

字赤嶺(あかみね)

字安次嶺(あしみね)

字当間(とうま)

字鏡水(かがみず)

字大嶺(おおみね)

字高良(たから)

字宮城(みやぎ)

字具志(ぐし)

字宇栄原(うえばる)

高良(たから)

▼ 参考文献「小禄村誌」▼

(1)沿革

 字高良は沖縄本島の南部、小禄台地の南西部に位置し、字具志・字宮城を隔てて東支那海に面している。伝承によると、村の発祥は始め上内聞という家が玉城間切から移り住み、後に新垣、浦崎、名嘉、勢頭、拝の前の五家がきたといわれる。そのうち上内聞は国元と云われ、村の祭事には真先に拝むならわしになっている。1635年の琉球国高究帳に、豊見城間切多加良村の田畑の生産高が記されていることから、村はそれよりもずっと以前に成立していたことがわかる。

 行政所属の移りと村の王府役人について述べると、1673年(延宝元年・尚貞5年)小禄間切が11カ村を以て成立したとき、多加良村も他の7カ村と共に豊見城間切から分離し、小禄間切高良村となった。

 明治12年(1879年)廃藩置県で沖縄県小禄間切高良村。

 同29年(1896年)に島尻郡小禄間切高良村。

 同36年(1903年)には高良村と宮城村が合併して高宮城となる。

 明治41年(1908年)小禄村字高宮城となる。

 昭和26年(1951年)には高宮城が字高良と字宮城に分離した(年表・明治36年と昭和26年参照)

 王府時代に高良村役人について、王府時代高良には脇地頭が置かれていた。

承応2年(1653年)の豊見城間切多加良村脇地頭は久米村金氏人世正春であり、宝永元年(1704年)には首里の翁姓六世盛武が小禄間切高良村脇地頭に任じられた。

(2)戦前の状況

 拝所は高良御嶽、高良里主所之殿、新高良之殿、宇栄高良之殿、内聞之殿、火の神殿があり、具志祝女、根神が祭示巳にあたったといわれる。主な祭示巳は旧暦(以下同じ)正月2日の初拝、5月15日の稲穂祭(5月ウマチー)、6月15日の稲大祭(6月ウマチー)6月25日の綱引き、9月吉日の真壁ムスメー、10月にコームイがあった。

 特に綱引きは豊年を祈る祭りとして部落あげて盛大なものであった。大正の半ば頃まで大綱を引いたが、部落が東西に別れて対立したので御願綱に改めたといわれる。遊びや慰労としての行事に女性だけの三月遊び、製糖業が終わった5月には男だけの腰休(クシュックイ)があった。

 王府時代から県政に移っても、農家の教育熱は一般的に低いものであった。高良村も明治の30年代になると、村の筆者の後任がいないようになった。それを心配した村の長老達は奨学資金をつくり、豊禄学校へ5名を進学させた。後にこの人達は村会議員、村役場史貞、農業指導員となって活躍した。昭和の時代になると旧制中学校への入学者も増え、師範学校を卒えて教職に就くものもいた。王府時代の人物には、百歳翁(ヒャークタンメー)といわれて王府から表彰された松川家の初代・徳松川家の祖先で田原綻、小禄番所の筆者を務めた東具志の具志 高がいる。戦前戦後は村会議員、市会義貞が次々選出されて活躍した。

 戦後は、長嶺良松氏が小禄村の助役に就任し後村長に選出された。具志栄治氏は戦前戦後沖縄県庁ならびに琉球政府に永年勤続し、昭和57年には勲五等瑞宝章の叙勲をうけている。また、長嶺律太郎氏が村の収入役に就いた。

 字高良は津真田原、仲添屋、池田原からなる。王府時代から戦前まで主産業は農業であった。1635年の「琉球国高究帳」に田48石余、畠27石余と記されている。然し近代になると殆ど砂糖の生産に代わり、農地面積もキビと主食のイモ畑であった。

 大正末期の砂糖の生産高は、150斤棒詰で約1300檎(丁)で、製糖場も4カ所あった。又高良芋の味の良さは、歌にまでなった。

 然し限られた農地面積しかない農村の人口増加は次第に生活難となり次男、三男は県外出稼ぎや海外移民に出た。婦女子は餅織(小禄クンジー)やパナマ帽編みをして生計を補った。

 戦前から字高良は小禄村の南部5ヵ字の中心に位置し、村の中を那覇、糸満を結ぶ県道が通り、軌道馬車や客馬車が通っていた。県道の両側には雑貨店、理髪店、銭湯、染屋などが建ち、南の5カ村の人々が生活物資を求める場になっていた。特に朝市は鮮魚や野菜の売買で賑わった。

(3)戦後の状況

 字高良は、津真田原を残して地内の60%が接収され、而も全域を接収された他字の住民が集中した。

 その為に小禄村の行政機関の村役場、小中学校、警部補派出所、食程配給所、診療所、郵便局等も高良地域に出来た。また、野外劇場も出来、唯一の村民の娯楽の場になった。

 このように字高良は小禄村の中心をなしていたが、その後各部落への移動や新部落の建設によって、高良地域の混雑も次第に緩和されていったが、高良地域に定住した者も多く、地域は次第に都市化している。

 戦前小禄村南部地区の中心地として特色があった字高良は、戦後前記のような特殊な事情も重なり、現在再び近隣部落の中心的な姿を見せている。部落の中を走る県道や市道の両側は、スーパー・銀行・医院その他各種の商店が軒を並べ、近隣商業地域になっている。職業も戦前の主な農業から、戦後は軍作業に変わり、更に公務員や各種企業の従業員になった。又個人企業としての商工業も営まれており、職業も多様化している。


高良自治会
沖縄タイムス「な〜ふぁ歩紀・その35」(平成14年12月10日(火)スクラップ)
中ヌ御嶽・高良之殿・火の神(2007.12.06)
八つの井(2007.12.06)
住居表示案内図(高良1・2丁目)

contents
(有)プラネットビジネス
たからネット
Copyright (C) 2000 TAKARA-NET. All Rights Reserved.