小禄 -OROKU- ホームページへ

■ 12ヵ字 ■

字小禄(おろく)

字田原(たばる)

字金城(かなぐすく)

字赤嶺(あかみね)

字安次嶺(あしみね)

字当間(とうま)

字鏡水(かがみず)

字大嶺(おおみね)

字高良(たから)

字宮城(みやぐすく)

字具志(ぐし)

字宇栄原(うえばる)

字宮城(みやぐすく)

▼ 参考文献「小禄村誌」▼

(1)沿革

 豊見城間切から分かれた8カ村の一つで、南島風土記には「ぐし宮城」と書かれている。そして明治36年の沖縄県土地整理法の完了にともない、ぐし宮城と高良の二村を合して「高宮城村」となり、その名称が大字として昭和26年3月まで用いられ、同年4月1日には土地の附番が正式に設定され「字高良」と「字宮城」に分離されたのである。

 地形はイカの形にやや似ていて、大道原・武南喜原・伊盛原が三角形になり、大道口原のところでやや広くなっている。

 この部落の先祖がいつ頃どのようにして住みついたのかわからないが、一人の女(今帰仁村出身といわれている)が、身重になってここまでやってきたと言う。そしてまもなく男の子を産み、その子がここの祖先に当たると言う。その女は護佐丸の種を宿してやってきたとのことで、この部落の人達は護佐丸の子孫であると言われている。そして御嶽の神様は、女神であると言われている。

 国元、大屋門中では毎年の拝みや6月ウマチ一には、中城の字泊の大屋(屋号)に必ず行って拝み、護佐丸の墓にも参詣する。又シーシ(添石)祝女殿内も拝む。それは泊大屋の女が祝女(ノロ)になったのだが、添石へ嫁入りして、そこで祝女職についたからである。

 門中組織を見ると、
    (1)大屋門中、(2)安次嶺門中、(3)堀川門中、(4)上門門中、(5)内神堂門中、(6)西門小門中、(7)上原門中、(8)新垣門中、(9)赤嶺門中、(10)新富祖門中、(11)安座名門中
などがある。このうち(4)(5)(6)は大屋(国元、嶽元)からの分かれである。

(2)戦前の状況

 田畑豊かな宮城
  人々心ん悠々と
   黄金冬瓜も成り実らしゃ

 と「小禄間切口説」に詩われているように早くから農業に力を入れたところであった。どの家庭も農業で、主としてキビ作りであった。製糖場(サーターヤー)が東(尻川原)にニカ所、西(田畑原)に三カ所もあり、他部落にくらべ盛んであったことを物語るものである。又その時代に製糖場に発動機が導入されていたことは特筆すべきである。キビの収積の多いところは1樽100斤入れの300樽もあった。

 蔬菜類ではキャベツ、冬瓜、ダイコン、ニンジンなどを中心に植えられた。各家庭では養豚も盛んであった。

 婦女子の職業として、機織り・パナマ帽子編みも盛んであった。大正末期、屋号・新安次嶺が家内工業として小禄紺絣の染織業を開始し、婦女子の織子20人位が働いていた。昭和8〜9年頃、その隣接地に機織共同作業所を建設して宮城、高良、宇栄原、具志の婦女子50人位が小禄紺絣を織っていた。他に収入の道が少ない時代において、大きな収入源になり喜ばれた。

 また昭和16年頃から、小禄尋常高等小学校付属女子補習学校の敷地内に安次嶺染織工場(新安次嶺・安次嶺幸基経営)が小禄村から委託され、年間合計700反〜800反が生産されていた。今次大戦で、この小禄紺絣を失ったことは残念である。

 教育界では、大嶺真英氏と上原栄氏が、戦前戦後を通じて活躍された。特に大嶺真栄氏は、戦後教育委員として長年にわたり小禄村の教育振興に尽くされた功績は大きい。上原栄氏も戦後は小学校長を歴任、子弟教育に力を注がれた。

 村政においては、初代村長の上原正得氏(具志出身)の村長時代に助役として上原清秀氏が活躍され、また五代村長上原興永氏(田原出身)の村長時代の助役として安次嶺康之氏が活躍された。

 明治37、38年頃まで村芝居が盛んで、東は組踊「忠孝婦人(大川敵打ち、村原ともいう)」西は組踊「姉妹敵打ち」を得意芸とした。特に祭の日は、他字や遠く那覇あたりからの見物客で賑わった。近世まで組踊りの一節、原国兄弟のナギナタ節、女琴節等が受け継がれ、腰休(クシユックイ)や祭の日に踊られた。特にナギナタ舞踊については、他字にない勇壮な踊りとしてもてはやされた。

(3)戦後の状況

 昭和21年初め頃から国頭方面や、日本本土外地の疎開先から帰って来た字民(村民)は旧部落に帰ることができず、高良、宇栄原一帯の米軍が残したテント小屋や、共同で建てた茅葺(かやぶき)小屋に押し込まれるように住むことになった。昭和22年8月頃、旧宮城の一部も解放されたが、昭和28年4月頃米軍の立退き命令が出て、一度解放された宅地、農耕地が接収され、7世帯が再び高良、宇栄原方面へ移転した。農耕地の殆どが、また宅地の3分の2以上が軍用地に取られたため、字民の大多数が他字や他市町村に居住地を求めていることは、字行政の上からも種々の困難があり残念である。

 戦後は農業ができなくなり、医師、弁護士、教員、公務員、会社員、銀行員等仕事も多様化しており、職場や地域社会で活躍している人も多い。戦前の地勢は、宮城1号線(自治会館)に通ずる道路と東の製糖場(サーターヤー)、前ヌ井戸(メーヌカー)、西の製糖場に通ずる道路だけがようやく荷馬車が交差できる道路であり、他の道路は馬車が1台通れる位の狭い道路であったが、戦後の復興は道路の整備からだとして、他に先がけ道路の拡張や環境の整備がなされた。

 昭和50年11月、御嶽の整備がなされ、拝所(祖神堂)が建立され、空地と子供の遊び場等に活用することになった。

 戦後、公民館はトタン葺、コンクリート建と増改築を繰り返したが、昭和55年4月運輸省、那覇市当局、他関係者の援助と字民の協力により立派な自治会館が完成した。

 具志・宮城区画整理事業(昭和63年〜平成6年完成予定)も進んでおり、完成後は一段と環境も整備され、ますます発展するものと期待されている。


宮城自治会
・具志宮城土地区画整理事業「竣工記念碑」(平成7年11月吉日)(碑文)

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