|
(1)沿革
安次嶺にいつ頃、遠い祖先がやって来られたかははっきりしないが、どういう人がやって来たかは口碑として残っている。安次嶺へ最初にきた人は、根屋という人と安里という人であったとされている。それに内間という人が加わって、安次嶺の村立てをしたと云われている。
また遠い祖は、第五王統(第二尚氏)の第一王である尚円だとも語られており、尚円が王位につかない前、即ち金丸と呼ばれていた時に西原村内間の屋号糸数の女に産ませた子がいる。その子が後に、知念村字知名の知名親雲上となり、その子が具志堅親雲上となり、更にその子の具志清牛(当時の知念按司)が、年老いてから安次嶺村にやって来た。そして瀬長接司の娘を妻に迎え、二人の間に六男として生まれた子が安次嶺の祖だともいう(当間三郎氏説・1959年3月11日)。
清牛にとって、瀬長按司の娘は三番目の妻だったと言われている。第一正妻は長男・次男を生んで亡くなり、第二正妻は三男・四男・五男を生んで亡くなったため、その後こちらへ来られてから第三正妻を娶られたとの口碑である。安次嶺という名前を付けたのは、具志清牛であるとも言われている。
門中組織は10ほどある。
(1)根屋門中 (2)安里門中 (3)宮城門中 (4)大前屋敷門中 (5)前高良門中 (6)具志門中 (7)赤嶺小門中 (8)米須門中 (9)祖慶門中 (10)波平前門中
(2)戦前の状況
肥沃な土地を持ち、全家庭が農業中心の生活であった。勤め人というのは、明治末年(40年頃)までは上原松氏が村の収入役の席に居ただけで、他には居なかった。上原氏は安次嶺の偉人であったと古老は語っている。
その後大正の末年になって、赤嶺五郎氏が農業技手として活躍した。蔬菜作り、中でもキャベツと人参作りは安次嶺村の誇りで、大正10年頃から昭和10年頃までは模範字として県下に響いていた。キャベツの植え付けをし、奨励したのは沖縄県でこの安次嶺が初めてであったし、また人参を広めたのも安次嶺であったと古老は言っている。
大正5年頃、県知事がわざわざ安次嶺まで来て、キャベツの苗床を御覧になり、感激しておられたとの事である。これらの苗床は、すべて赤嶺五郎氏が考案したものであった。キャベツや人参は大量に那覇の市場に出し、本土にも出荷した。
人参畑は大きい所で、1,000坪もあった。一方キャベツは多い所で2万本位あった。普通の農家では1,000本は下らないという力の入れようで、この二つは安次嶺の特産で、県下や本土にその名を知られていた。赤キャベツなどもあった。これ等は他の字にはなかったもので、安次嶺だけが植えていた。主に本土の料理屋相手に出した。
他には、トマト、ナス、花キャベツ(カブカンダン)、セロリー等を作り那覇へ出した。大根は隣の字鏡水が特産で、安次嶺は食べる位しか作らなかったようである。鏡水は、明治36年以前までは安次嶺村のハルヤーであった。その後鏡水の増大に伴い独立させ、金城と赤嶺が安次嶺村に合わされたのである。
(3)戦後の状況
戦後は宇栄原を中心として芋を作って生活をしていたが、新部落が出来るようになって殆どの人がそこへ移り住んだ。僅かであるが、宇栄原方面に住んでいる人達もいる。総ての土地が軍用地になり、昔の安次嶺はみんな整地されて皆目見当がつかなくなっている。キャベツや人参を作ったあの肥沃な土地は、コンクリートを流されてしまった。
遊び実らしやの安次嶺や
神に奉献する真心に
子孫牛馬も道広く
と「小禄間切口説」に詩われている安次嶺は、小禄村では村芝居で有名な所である。幾代先からか判然としないが、貴重なる芸能の数々も継承している。
安次嶺には、古くから伝わっている村踊り(村遊び)がある。戦前までは、青年会から「村踊りをやって欲しい」との願いが出ると、区長は役員と話し合い、常会にかけて実施したという。
戦後は旧高良小中校々庭で仮設舞台を造って行い、公民館落成祝賀会等でプログラムの大半を演じてきた。そして昭和41年4月23日、24日の両日、琉球新報ホールで全プログラムを公演した。
その後、踊りは公民館での行事になり、平成2年3月18日午後3時から、小禄公民館で次のプログラムが24年ぶりに演じられた。
(1)長者の大主 (2)かぎやで風 (3)こてい節 (4)揚作田(ゼイ・ニオ) (5)すーりあがり節(ニオ) (6)高離節(若衆) (7)月見(ニオ) (8)貫花(女踊) (9)伊集の木(扇・ニオ) (10)エサ節(ニオ) (11)じんにやくぅ節(若衆) (12)揚作田(笠・ニオ) (13)はんた前節(女踊) (14)湊くり節(ニオ) (15)山笠(ニオ) (16)伊集の木(ゼイ・ニオ) (17)しゅんどう(打ち組み) (18)八人踊り(若衆・ニオ) (19)組踊「久良案大主」‥……であった。
|
|