トゥヌ(殿/トゥン)

2000.10.28.撮影



 


 
タキガー

掘り井戸。村ガー。
形はほとんど残っておらず、コンクリートで埋められている。
那覇市の環境マップリンク


森口公園と整備されて綺麗になった。奥の森は「小禄ノ嶽


▲殿より南側を望む(写真クリックで拡大します)
写真右端は、小禄小学校。
道を下っていくと「ノロ家/神道(戦前の石畳)/神アシャギ」につながる。

▼ 参考文献「歴史散歩マップ.小禄まーい

トゥヌ(殿/トゥン)

 ここは殿と言います。この向こうにあります丘(森)が御嶽です。御嶽に対する殿です。

 最近は誤解が生じていまして、どこかの部落に行っても、御嶽はどこにありますかと言うと、この部落は御嶽が多いところで10ヶ所もあると言うのです。御嶽と言うものは本来は村に1つしかないものです。

 仲松弥秀先生によると御嶽という森は古代においては埋葬地であったのだと、そしてそれは個人の識別の出来ない墓地、大和で言えば東北地方にあるハヤマというのがありますが、これとよく似たようなものなのです。

 みなさん、葬るということはわかりますよね。「葬ると」「ほうる」いとうのは語源は一緒なのです。昔は遺体をどこかの山に「ほうる」ということをやってきたのです。

 例えば歌で有名な藤原定家。歌仙と言われたのですが、あの人の墓はどこかというとわからないのです。藤原一家の葬り場所としての山はありますけど、どこに定家が居るのかというのはわからない。それと同じ様に御嶽の場合にもひとつの森に、昔は皆そこへグソーとして送ったと考えられるわけです。

 それとよく似た様なもので東風平の宜次の部落にアッタマシモーという所があります。最近こそは農地改良のために削ったのですけど、そこはとても怖い所と言われ、お年寄り達は「入ったら大変になるよー、魂ぬぎーんどー」という様な話をします。

 墓地にいくにはその側を通らないといけないのですが、ウシーミーとかタナバタとか限られた時でも、そのモーグヮーの近くに寄るのは嫌がる訳です。

 ところが、農地改良で山を削り初めたらカーミーがいっぱい出てきた。あちらこちらから、大体18世紀頃のカーミが主に出てきました。全部で8つくらいありました。何故そういうのがそこにあるのか。皆さん忘れていた、あるいはわからなかった訳です。そういう物が出てくるというのは、そこに何らかの意味がある訳です。

 例えば19世紀になって度々あるのですけど、山野に散らばっている骨を集めて雨乞いをなすという記事がよく見受けられるのです。それは昔の葬り方の一つの方向を示すものではないかと思うわけです。

 宮古のある地方ではそのまま野ざらしというところがありました。それから、久高でもグソーというところがあります。そこは皆一緒で、誰々のものと決まっていません。島の人達を皆同じところに置いてそして野ざらしした後、骨を集めた。

 今はもちろん火葬なのですが、そういう様なことをやっていた。だから、久高ではグソーを荒らすから犬は飼ってはいけないと言うことです。そういう所というのは、普段は入っていけないと言われている。そういう村の人達、先祖代々の人達が葬られて来た場所というのは、個人のつながりはないけど、村の人違が思い慕い続ける御先祖様、あるいは自分の父ちゃん、母ちゃんという様な形で御嶽というのを考えてきた。事実、御獄に何らかの工事が入って、削られた時に古い骨が出て来ると言うのは結構あります。

 山原なんかでは、それは昔の戦の時の骨だとかいう様な言い方をしてますけど、多くはそうした村墓、村としての墓地であったという風に考えた方が無難かと思います。そういうふうに村の人達、皆の心と御嶽というのはつながっているわけです。

 自分の御先祖ということで、御嶽の事をクサティムイと言います。孫を抱いているような腰あて、クサティムイと呼ぱれるわけです。御嶽に関して、今私が話したのは村の御獄なのです。

 ところが同じ村に2つある、3つあるという時に考えないといけないのは村が3つくっついたとか、あるいは2つくっついたとかいうことです。例えぱ、ジャナグスクという所がありますが、あれもそうですね。ジャシキとテンナスとグスクという3つの部落がくっついているもんですから、御嶽が3つある。

 ところが、小禄ドゥームラもここと真玉嶽と2つの嶽がある。2つの村がくっついたのかという話ですね。確かに琉球国由来記には両方出てきます。ここへ登って一つ気が付く事がありますが、向こう側を見ると真玉嶽というポツンと一つ山があります。まわりをこっちへ顔を振っていくと国場川の下流で、まわりは低い訳です。そうすると大昔の地形は、ひょっとするとあれは島ではないかと推定されます。そういう事を考えていくと、どうやらあっちの方はニライカナイの神様じゃないかねというふうに考えることが出来る訳です。

 はっきりしているのは、小禄では具志のサキヤマ嶽、あれは確実にニライカナイの神様です。小禄の中では、ニライカナイの神様と村の鎮守の神様とは違うのです。ニライカナイというのは海の向こうの遥か彼方の神の世界、そこから神様がいらっしゃる。こっちは御嶽の神様といって村を守る先祖の神様。そういう違いがあるわけです。御嶽は2種類あり、そしてニライカナイの神様というのはどこの村でもおまつりするというものではありません。むしろ無い部落の方が多い訳です。

 琉球の国単位で考冬ますと、ニライカナイの神様というのは弁ヶ嶽です。むこうはタマノミウジスベルカワのオイベという大獄の神様と、テダコという小嶽の神様とがいる訳です。これは完全にニライカナイの神様です。ニライカナイの神様のいる場所というのはだいたい海が臨めます。おまつりの時に真っ先に行く御嶽ではなく、後になるんです。

 おまつりの時に行くコースというのは非常に重要です。神様の事ですから何か手違いがあったら怖い訳です。長い間意味がわからなくても絶対まわる順番をかえませんけれども、最近は生活改善運動とかいうので、そういう拝みのポイントが飛ぱされたりもします。中には増えて行く所もあります。凡そにおいては部落の中でどこからどこへ回るのかなとおさえておくとパターンがあるのです。

 二ーヤーから出るとか、ヌールヤーから出るとか、そして、ヌールヤーから出ると根屋に最初に行きます。それから、御嶽の殿です、そして殿の次に行くのが御嶽です。男達はここでしか待てません。中へは入れません。出てきて、その次に神道を通ってどこへ行くか、そういう順番が決まっているのです。それさえわかれぱ簡単にどの家がどれか、どこがどういう御裁か、単なる拝所か、皆わかる訳です。

 ここは小禄の御嶽に対する殿です。殿というと、台所もトゥンです。台所はシムよという人がいますか?そういう方は非常に高貴なお家のです。シムというのはシモテという意味で、そういう言い方は鹿児島の侵入以後です。鹿児島では台所のことをシモと言うのです。シモは女性の様な不浄の章のいる所という様な考え方です。高貴なお家と言ったのは、士族の家ではシムと言うのです。

 普通一般、私ども庶民はトゥンと呼んでいる、あるいはトゥーラという所もあります。トゥングワーとも言いますね。グワーは愛称というか、だいたい基本形はトゥン。この場所も殿と言いますが、恩納村を境にして南は殿、北はアサギ、あるいはアシャギと言います。こういう場所には、建物のある場合とこういう広場のある場合があります。こういう場合は大体トゥンノニャーという言い方、あるいはトゥンヌナー、要するに庭や広場といういい方をします。今そういう施設、建物があり、昔の様子をよく見せてくれるのは伊是名です。

 伊是名に行きますと、軒の低い茅葺きの建物があります。2mちょっとくらいの正方形で軒は大変低くしてあります。その中でおまつりをやります。地域によるとコンクリートでそういうものを作ってある所もあります。そこで御嶽に対して拝みをするわけで、殿とかカミアサギというのはそこでおまつりをする場所という意味なのです。そこに神様はいらっしゃいません。神様は向こうの御嶽、あくまで御嶽なのです。

 真和志間切だけはこういう殿にも神様の名前が付いていて、これは真和志間切だけなのです。真和志間切だけは御嶽とは別の神様がいると考えていたらしいのです。それが、本当なのか、あるいは古い形なのか、新しい形なのかはよくわかりません。他に比較する材料がないのです。南部の方で殿の建物がよく残っているのは、佐敷町の屋比久の殿と外間の殿です。外間の殿は国道沿いで、何かの拍子に上を見たらあります。通り沿いに岩山があってその上にあります。こっちから行くと右手になります。ここの殿はおまつりをする場所であるとともに、男性はここから向こうに行くことは出来ませんでした。

 今、世の中変わっていますから、男性も行っても良いようですけど。更に中に入って行きますと、クディングワもここまで、後は部落の神人2、3人しか入れないという所へ続いて行くのです。

 ここから周りをよく眺めて見てください。ここは那覇港の河口を臨む場所であるわけです。ということは、向こうから中山が攻めてくる時、南山の最前線にもなるわけです。そして那覇港の津口を担うし、首根っこになる部分です。ですからこういう所にグスクがあるということなのです。

 御嶽の中に入ってみましょう。浦添から首里に引っ越して来ただろうと今のところ考えられています。ですからその頃、武寧は多分落ちた時は向こうにあるわけですから、ここから臨んでさぞ恨めしかった事でしょうね。見ての通り右も左も岩影はお墓ですね。古いお墓のある所と先程言いましたけれども、その典型的な形ですね。御嶽というのは森そのものが御嶽であって、一個の香炉とか拝所とか、こういう施設の一カ所が御嶽ということではないのです。

 例えぱ金城にしても安次嶺にしても、米軍に接収されてしまって自分達の御嶽の見える所で、安次嶺は小禄中学校の裏門側に、そして金城は田原の山城医院の後で公民館の所といった具合に、お通しをする所として自分達の部落の御嶽が見える所に必ず持って来ているわけです。

 ところがそれを誤解してしまって、ここが御嶽だからここで拝めばいいというふうに変わっていく。そうすると森なんかあって、山になっているからお家建たないよ、造成しなさいと言う人も出て来るわけです。ユタがそこへ入ってくるからよけいややこしくなるわけです。だからこの香炉が大事であって、これをここに置いてあるから御嶽はここなんだよと言い始めるわけです。

 そうするとこれは開発する側には絶好ですね。要するに御嶽は移動できるのだと、しかも香炉を持って行けぱ、ブラジルでも大和でも引っ越し出来るのだと。ですからそういう事を言ってしまうと森としての御嶽というのは関係なくなってくると、そういうふうに今考えが変わって来ています。

 しかし、本来はこうした所全体が御嶽であって、確かに昔からの香炉もありますが、それは御嶽のオヘソにあたる部分にそういうのはあります。そういうオヘソの部分という所には大きな岩があったりマー二=クロツグが繁っていたり、クバが一本だけ立っていたりします。そういう所がイベと言って御嶽の中の中心の中心となるのです。

そこに入れるというのが、神人の中でもノロさん、二ーガンそれくらいです。あるいはついて行けるとしたらトモ神、ウッチ神とかですね。ウッチ神は男性ですから入れないのですけど、ノロさんのお共をする神様がいますが、入っていけ得るのはそういう人達3、4名です。そういう中心地の植物というのを良く覚えておかれると、例えぱ山原にドライブに行きますと、カープを曲がろうとした森の中にポーンと一本だけクバが立っていることがあります。クバというのはよくわかりますよね。マー二は低いですけどクバというのは高くなりますから、そういう所は100%御嶽です。部落の近くであれぱ、こういう目印というのは昔から決まっているのです。そういう側まで行ける人達も本来は決まっていました。今でもよそ者とか関係の無い人達を絶対側までは案内しないという所も結構あります。

 小禄の嶽といのは、琉球国由来記の中にでてくる名前でありまして、地方の名前はカニマン御嶽あるいは真玉御嶽のメーヌウタキに対してクシヌウタキという言い方をしています。部落の後というのはムートゥヤー、ウフムートゥ、ヌールヤーというのが揃っている所、さらにその後ですから、村の中では位の高い位置にある場所ですね。

 ですから、こちらの方には家を建てないという事になっているわけです。そして、もう一つはこの近くの地面をよく観察していると、土器の破片を拾えます。そういう事もあってここは遺跡でもあるわけですね。遺跡でもあるし、御嶽でもあるし、それからグスクでもある。三拍子揃っている所ですね。

 森の中を散策して部落の中へ戻って行きたいと思います。先程グスクの話をしましたけど、首里城が見え、中山の動きを察するには非常に都合の良い場所です。中山のためにやって来る船なんかを襲ったりするのに非常に良い場所です。

 昔の事ですから橋はありません。16世紀になってやっと真玉橋が出来ますが、はじめは木橋で、石橋になるのはそれから後です。明治橋に至っては明治16年ですから、明治にならないと出来ません。ですからずっと離れた場所であったのです。ここイベイを見てみますと、火神の様に3つ石があって、後の方に石灰岩のホコラの上だけが残っていますが、間は崩れてしまった様です。

 周りを見てみますと、マー二の木が多いですが、あれは聖なる所に植える象徴の木です。神様の名前もマネヅカサ、あるいはクバヅカサという名前が結構多いのですが、ここの神様の名前はミキョチヤマベノオイベという神様がいらしたということです。

 先程言いました様にここで拾える土器というのはグスク系の土器なのです。グスク時代というのは、12世紀から17世紀の始めくらいまでの間を言うのです。

・・・追記(2015.2.15.撮影)
「森口公園」整備工事





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