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戦前・大和世

1879年(明治12)の廃藩置県(琉球処分)〜

▼ 参考文献「小禄村誌」▼

沖縄県誕生

 1879年(明治12年)3月30日にようやくすべての重要書類の引継や首里城の明け渡しとその他廃藩置県に関する形式上の手続きがひと通り終わり、ここに明朝の冊封をうけてから5世紀を経て、尚泰王を最後とする封建政治に終止符がうたれた。

 そして日本政府内務省出張所が那覇市西町に置かれ、はじめて日本の一道三府四十三県のうちの一県になった。

小禄村誕生

 1908年(明治41年)4月より施行された「特別町村制(沖縄県及島嶼町村制)」により、これまでの小禄間切が「小禄村」と改められた。

沖縄最初の電力会社

 1910年(明治43年)4月25日「沖縄電気(株)」が設立。
 同年12月15日那覇区美栄橋の発電所から、首里・那覇と島尻や中頭の一部地域600戸に1,780灯の電灯をともし、沖縄に「文明開化」をもたらした。

 1918年(大正7年)に「宮古電気(株)」1924年(大正13年)に「名護電灯(株)」1927年(昭和2年)に「八重山電気(株)」が営業開始されるが、1943年(昭和18年)にこれらの会社は「配電統制令」により「九州配電(株)」に吸収され、同社の沖縄支店として再出発する。

 45年(昭和20年)4月1日から6月23日に終わった「沖縄戦(太平洋戦争末期)」の災禍のために施設はすべて破滅する。戦後はランプ生活になるが、米軍払い下げの内燃発電機による民間の小電気事業者が各地に乱立し、1952年(昭和27年)に「電気事業法」が制定され、5つの配電会社が設立される。

 54年(昭和29年)米軍および住民に電力を供給する米国民政府の一機関である「琉球電力公社」が設立され、同時に牧港火力発電所と基幹送電線を取得。米軍需要の余剰電力を受ける配電会社が一般需要家へ供給することで、沖縄本島における電気事業体系の基盤が確立された。

小禄飛行場の建設

 1933年(昭和8年)は海軍によって、小禄海軍飛行場として建設された。

 鏡水(かがみず)大嶺(おおみね)間に、面積10万平方メートル、幅200m、長さ750m、L字型の滑走路2本を建設。

位置・地勢・面積・産業・人口

 小禄村の地勢は殆ど平野にして山林極めて少なく、丘陵が所々に点在するのみである。

 東西は4キロ余、南北は2.2キロ余という長方形をなし、面積は11平方キロ余にして地味豊かな土地を有し、甘蕉(サトウキビ“白下糖”)や甘藷(サツマイモ“沖縄100号”)が主産物であった。

 ちなみに、白下糖の製法は黒糖とほとんど変わりないが、取り上げ温度や濃度は黒糖より若干低めであり、また糖汁を中和し不純物を除去するために加用する石灰の量も控え目である。

 製品は木樽やブリキ缶入りで取り引きされ、沖縄県・鹿児島県・香川県が主な産地であったが、現在はほとんど製造されていない状態である。

 沖縄100号とは、サツマイモの品種である。1934年(昭和9年)から1961年(昭36年)ごろまで県の奨励品種として普及した。早生多収性で品質良好のうえ土質を選ばず、栽培しやすいという条件で県内はもとより、全国的にも食用・澱粉原料として広く普及した。

 特に食糧事情の逼迫した戦時体制下から戦後にかけ、国良の主食糧として果たした役割は大きかった。

 更に小禄村は、蔬菜栽培にも力を入れ、県内で最初にトマトを栽培した村である。

 また、キャベッやニンジンを植え、大正5年頃は安次嶺部落から本土へ出荷するなどの盛況さであったため、当時の県知事は安次嶺部落のキャベツ栽培をわざわざ視察し、苗床作りに驚嘆することしきりであったと言う。

 加えて、鏡水大根(カガンジデークニ)は全県的にも有名で、那覇の市場はもとより本土や大連満洲方面にも販路の拡張を計った程であった。

 工業地としても栄え、織物(絣と紬)泡盛(字小禄在・南陽酒造所)を産し、昭和10年前後までは琉球緋(俗に小禄クンジーという)の有名な産地で、その声価を県下にとどろかせたものである。

 この「小禄クンジー」は、儀間真常が泉崎に住む薩摩の女性・梅千代と実千代を使って、小禄・豊見城・垣花の三ヵ村に普及させたと伝えられ、次の「小禄豊見城(うるくとぅみぐしく)」(三村節・三村踊り)という島歌にも表出されている。

 小禄 豊見城 垣花三村

 三村ぬ あんぐわ達が

 揃とぅてぃ 布織い話

 綾まみぐなよ むとかんじゅんどぅ

 (資料リンク:国頭郡東村宮城のエイサーより聞いてみる)

 このように、小禄では織物が盛んに行われ、明治36年4月には沖縄初の「女子実業補習学校」が小禄尋常小学校内に設立されている。

 こうしたなかで、戦前の小禄村では帽子(パナマ・アダン葉)も手広く生産され、上物で1個7円から8円という値で収益もよく、織物と合わせて農業より収入があったことから、好況時には男が代わって食事の準備をする程であったと言う。

 ちなみに、昭和15年の人口は9,900人余、世帯数1,800戸余の純農村地帯で、那覇市へ編入時の人口は14,400人余、世帯数3,000戸余であった。

戦前の小禄村図
↑戦前の小禄村図

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